大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和63年(あ)130号 判決

主文

原判決を破棄する。

本件控訴を棄却する。

理由

弁護人永山忠彦の上告趣意は、憲法三一条違反及び判例違反をいう点を含め、実質はすべて事実誤認の主張であり、弁護人堀川文孝の上告趣意のうち、被告人の自白の任意性を争って憲法三一条違反をいう点は、記録によると、被告人の自白の任意性を肯定した原判断は相当と認められるから、前提を欠き、その余は、憲法三一条違反をいう点を含め、実質はすべて事実誤認、単なる法令違反の主張であり、弁護人安福謙二の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であり、被告人本人の上告趣意は、事実誤認の主張であって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

しかしながら、所論にかんがみ職権をもって調査すると、原判決は、以下の理由により破棄を免れない。

一  本件公訴事実と第一、二審判決

本件公訴事実は、「被告人は、昭和六〇年七月一三日午後六時ころ、東京都板橋区〈住所略〉○○マンション(以下「本件マンション」という。)前通路において、帰宅途中のA(当時九歳。)を認めるや、同女が一三歳未満であることを知りながら同女にわいせつ行為をしようと企て、同女を同マンションA号棟に通ずる階段踊り場に連れ込み、同所において、同女に対し、着衣の上から右手で陰部をもてあそんだうえ、更に同女を同マンションB号棟に連行し、同日午後六時三〇分ころまでの間、三階から七階に至る各階段において、同女に対し、着衣の上から陰部を触り、パンティ内側に手を差し入れて手指で陰部をもてあそんだほか、パンティを下げて陰部を舌でなめるなどし、もって、一三歳に満たない婦女に対し、わいせつ行為をなしたものである」というのである。

Aが右のとおりの被害を受けたことは、証拠上明らかであり、本件の争点は、その犯人が被告人であるか否かの一点に帰するところ、第一審判決は、犯人と被告人との同一性に疑いがあるとして被告人に無罪を言い渡したが、原判決は、検察官の事実誤認の論旨を容れて第一審判決を破棄し、右公訴事実と同旨の犯罪事実を認め、被告人を懲役一年二月に処した。

二  事件及び捜査の経過

本件記録から窺われる事件及び捜査の経過は、概ね以下のとおりである。

1  Aは、本件当時小学四年生であり、本件マンションB号棟一二〇七号室に両親と共に居住していたものであるが、昭和六〇年七月一三日(以下昭和六〇年については、月日のみを記すことがある。)午後六時ころから午後六時三〇分ころまでの間、一見外人(白色人種)風の容貌でありながら日本語を流暢に話す若い男から本件被害を受けた。その際、本件マンションの管理人であり、A号棟二〇一号室に居住するBは、たまたま、A号棟二階に通ずる階段踊り場を通り掛かり、そこにいるAと犯人を見掛け、犯人と言葉を交わしたが、犯行には気付かないままその場を通り過ぎた。他方、被告人は、アメリカ人の父と日本人の母との間に福岡県で出生し、以来日本国内で生育し、昭和五九年一〇月ころから本件マンションA号棟三〇三号室に祖父や母親と共に居住していたものである。

2  Aは、本件被害のことを当初は誰にも告げなかったが、被害の翌々日の七月一五日、通学先の学校で、同級生のCとDに本件被害の事実を告げたことから、その話が担任教師に伝わり、同月一六日夕刻、同教師からAの母親Eに連絡された。そこで、EがAに問いただしたところ、Aは被害の事実を認めるとともに、犯人は本件マンションに住む外人風の若い男であると告げた。そのため、EがBに右被害の事実を伝えて、本件マンションの住人中に右のような若い男がいるかどうかを訪ねたところ、Bは本件マンションの住人で右の特徴に当てはまる人物は被告人だけであると答えるとともに、板橋警察署平尾派出所に右被害発生の事実を通報し、駆けつけた警察官に対しても、犯人は被告人と思われる旨を申し立てた。このため、ほどなく、被告人は、警察官により板橋警察署に任意同行を求められて取調べを受け、同日夜警察署で行われた面通しの結果、Aが、被告人が犯人であることに間違いないと認めたので、本件犯行の容疑により緊急逮捕されるに至った。

3  なお、A及びBは、いずれも、捜査段階及び第一、二審において、一貫して犯人は被告人であると断定する供述をしている。一方、被告人は、緊急逮捕されて以来、本件犯行を否認していたが、七月二六日に司法警察員に対し、次いで同月三一日には検察官に対して、本件犯行を自白し、その旨の供述調書が作成された。しかし、被告人は、公判廷では犯行を否認している。

三  原判決の検討

原判決は、捜査段階以来のA及びBの各供述はいずれも大筋において信用するに足り、第一審判決が同人らによる犯人と被告人との同一性識別の正確性を疑うべき根拠として説示するところの大半は、これを支持することができず、かえって同人らによる右同一性識別の正確性には疑問を容れる余地がないと認められ、他方、被告人の捜査段階における自白も、第一審判決が指摘するように不完全なものであるとはいえ、その信用性はさほど低いとはいえず、犯罪の証明は十分であるとしている。

しかしながら、以下のとおり、原判決の右各証拠の評価には、少なからぬ疑問がある。

1  Aの供述について

(一)  Aは、第一、二審を通じて、本件被害状況、その途中でBに出会った際の状況、犯人の容貌・話し振り・服装・所持品等につき、詳細かつ具体的に供述している。しかも、原判決が指摘するように、Aは、約三〇分間にもわたって犯人と行動を共にしているのであるから、犯人と被告人との同一性を判断するに当たっては、Aの供述が最も重視されるべきである。しかし、他方、人物の同一性識別供述については、成人についてもその正確性が問題とされる場合が少なくないところ、特にAのような小学四年生程度の年少者の場合は被暗示性が強いから、Aの供述の信用性についても、慎重に吟味する必要がある。そこで、これを検討すると、その供述には、次のような疑問点がある。

(二)  まず、原判決は、犯人がAにとって既知の人物であったこと、約三〇分間にもわたって犯人と行動を共にし、被害者として犯人を注視していたこと、被告人が純粋な白人とも異なる特徴的な容貌の持ち主であること、Aには過去に白人系の外国人と交際した経験もあること、Aが被害から三日後の板橋警察署における面通しの際に躊躇なく被告人を犯人と指摘したことなどに徴すると、犯人は被告人であるとするAの供述の信用性は高いと判示している。しかしながら、犯人がAにとって既知の人物であるという点は、Aの供述によれば、以前に二、三回見掛けたことがあるという程度であり、言葉を交わしたこともないというのである。また、Aによる面通しについてみると、前記二の2のとおり、担任教師及びAの母に本件被害の事実が伝えられ、Bの申立があって、警察も被告人を容疑者として任意同行し、その後右面通しが行われるに至ったという経過をたどっているのであって、このように、右面通しまでに、かなり多くの人々が被告人を犯人として特定することに関与しており、Aもそのことを知ったうえで面通しに臨んだものと認められる。しかも、本件の面通しには、当時の状況からやむをえない面があったにせよ、暗示性が強いためできる限り避けるべきであるとされているいわゆる単独面通しの方法がとられている。このような事情に徴すると、Aが面通しにおいて被告人を犯人と指摘するに当たり、暗示を受けていた可能性を否定することができない。

(三)  次に、原判決は、被告人が本件の犯人であるとするAの供述が、同級生との会話により犯人についての暗示を受けた結果によるものではないかとの点に関し、Aは、第一審において、犯人は初めて見る人物ではなく、以前に本件マンション一階のスーパーマーケット内やA号棟の前あたりで二、三回見掛けたことのある人物であり、被害当時既にそのことに気付いていたと供述し、原審においては、被害当時から犯人が本件マンションの住人ではないかと思っていたと供述しているのであるから、被害のあった翌々日(七月一五日)のCらとの会話から、犯人が本件マンションの住人であると思い込み、そのゆえに、本件マンションの住人である被告人を本件の犯人であると認めるに至ったとみるのは、相当ではないと判示している。しかし、Aは、原審においては、原判示のように被害当時から犯人は本件マンションの住人であると思っていたと供述しているが、第一審においては、被害当時犯人が本件マンションの住人であるかどうかは分からず、Cとの会話により本件マンションの住人であると思ったと供述していたのである。しかも、Aは前記七月一五日学校でCやDと話をした際、本件マンションA号棟一四階に住むCから、日本語が堪能な外人にマンションのエレベーターの中までついて来られたことがあり、そのときその外人はエレベーターの五階のボタンを押していた旨聞いたと第一審及び原審において供述し、Dからは、本件マンション近くの歩道橋の上で男から英語を教えてあげようかといって肩を掴まれた旨聞いたと原審において供述している。そうすると、Aは、被害当時は本件の犯人が本件マンションの住人であるかどうかは分からなかったのに、Cらとの会話を通じて、本件の犯人はCやDの話す男と同一の人物で、本件マンション五階の住人であると思い込み、そこから本件マンションに住んでいる被告人を本件の犯人であると特定するようになったのではないかとの疑いを否定することができない。

(四)  さらに、原判決は、犯人が胸に「ポパイ」というような英字の入ったTシャツを着ていたというAの第一審における供述は、本件マンションに住む中学二年生のFが、原審において、本件犯行があった昭和六〇年夏ころ、本件マンションの近くで被告人がそのようなTシャツを着ているのを見掛け、流行遅れのものを着ていると感じて印象的であったと供述していることによって、その信用性が補強されていると判示している。なるほど、Fは、原審において一見原判決の説示に沿うかのような証言をしている。しかし、右証言をみると、Fは、被告人を見掛けたのは、昭和六〇年の夏で、小学校が夏休みに入った七月下旬以降のことであったとか、昭和六一年中にも見掛けたと明確に供述しているのであり、他方、被告人は昭和六〇年七月一六日に逮捕され、以後引き続き昭和六一年一二月一一日第一審の無罪判決により釈放されるまで継続して勾留されていたのであるから、右Fの証言は、時期の点において疑問があり、被告人以外の人物を被告人と見誤っているのではないかという重大な疑いがある。また、後述のとおり、被告人は、捜査段階の自白においてすら、このようなTシャツを着ていたことは述べておらず、他に被告人がこのようなTシャツを所持していたことを裏付ける証拠もない。

(五)  なお、犯人の特徴等を確認する尋問に対するAの供述をみると、例えば、第一審において、背の高さは忘れた、自分の父親より高いかどうかも分からない、目の色、眉毛、髭がどのようなものであったかも分からないと供述しているのに、原審においては、目のあたりが窪んでいることと背の高さからみて被告人が本件の犯人であることに間違いないと供述するなど、第一審よりも原審の方が詳細であり、また、被告人をより強く本件の犯人であると断定する内容となっている。しかし、いうまでもなく、犯人識別供述の正確性は、一般的にも、むしろ犯行時により近い時点での供述内容が重要であり、被告人について見聞きした後に至っての詳細、強固となった供述をそのとおり信用することには、問題があるというべきである。

(六)  以上のとおり、本件の犯人と被告人の同一性識別に関するAの供述の信用性については、疑問を挟む余地があり、原審が、これを前示のような理由によって信用性が高いとした判断は、たやすく是認することができない。

2  Bの供述について

(一)  Bは、第一、二審公判において、七月一三日夕刻本件マンションA号棟一、二階の間の階段踊り場で被告人とAが一緒にいたのは間違いないと供述しており、原判決は、右のBの供述は本件の犯人が被告人であるとするAの供述の信用性を裏付けていると判示している。しかし、Bの供述には、次のとおり、その信用性を疑わせる幾多の重大な疑問がある。

(二)  まず、B及びAの供述によれば、犯人が、本件犯行の際通り掛かったBに対し、「ヨシカワさんという人の家を知りませんか。英語を教えに来たんですけど。」などと尋ね、Bが、「そういう人はいない。ここは英語をやるところじゃない。無断でそのようなことをすると館内放送をする。」などと答えた事実が認められる。

ところで、原判決は、右の「館内放送をする。」というBの発言は、その放送の意義や実態等からみて、Bがその際犯人を本件マンションの住人ではなく、外部から立ち入って来た者と認識していた疑いがあるとしながらも、Bは、七月一三日の夕刻には午後七時から開始予定の本件マンションの自治会役員会の準備に追われており、Aと一緒にいた犯人から、英語教授うんぬんの話を聞いて、とっさにその男を本件マンション外部の者と早合点して、前記のような対応をしたものであって、そのときはこの件を格別気にも留めていなかったが、その後同月一六日に、Eから、Aの本件被害の模様や犯人の人相、特徴等を聞くに及んで、直ちに、同月一三日の夕刻にAと一緒にいた男と英語教授の件で話をしたことを思い出すとともに、そのときの会話の相手が被告人であることに気付くに至ったものと認められると判示している。しかし、そもそも右の原判示のような経過による記憶の喚起ということ自体が不自然というべきで、にわかに首肯し難いばかりでなく、記録によると、Bは、右の点に関し、捜査段階から第一、二審公判を通じ、従前から被告人の顔をよく知っており、本件当日Aと一緒にいた男と前記のような会話をした時点で既にその相手が被告人であると気付いていた旨を一貫して供述しているのであって、一度も原判示のような経過で記憶を喚起したとは供述していない。したがって、右原判示には、疑問がある。

加えて、右の会話をした時点で相手が被告人であることに気付いていたというBの供述は、明らかに外来者に対して向けられたものと解せられる「館内放送をする。」などというBの犯人に対する言動とは、合理的な説明がない限り矛盾するというほかはない。そのため、Bは、第一、二審公判において、繰り返し訴訟関係人からその点について説明を求められたのに、結局納得のいくような説明ができないまま尋問を終えているのであるから、右の供述についても、重大な疑問がある。

(三)  また、原判決は、右のBの記憶喚起の点について、Bは、被告人が本件マンションに入居する以前に二回ほどB方に同人の子供を訪ねて来たことがあり、本件犯行当時、被告人の顔を知っていたと認められるものの、Bがいかに本件マンションの管理人であるとはいえ、被告人の顔を、他の多数のマンションの住人の顔からとっさの間に逐一識別して、思い出せるほど熟知していたものとは到底考えられないから、七月一三日の夕刻にAと一緒にいた男すなわち犯人が被告人であったことを、前記のような経過で同月一六日に至って思い出したとしても、あながち不自然であるとはいえないと判示している。しかし、Bの供述中、前記の従前から被告人の顔をよく知っていたと供述する部分については、Bの居室と被告人のそれとが同じ棟で近接していることや、被告人が純粋の白人とも異なる特徴的な容貌の持ち主であることなどに照らし、その信用性を疑うべき理由を見出せないから、Bが被告人の顔を他の者と識別できるほどに熟知していなかったとの原判示にも、疑問がある。また、仮に、Bの被告人に対する面識が原判示の程度のものに過ぎなかったとすれば、Bは犯人との会話をその後特に気にも留めていなかったというのであるから、三日後に犯人の顔などを思い浮かべて、それが被告人であったと確信を持って断定できるなどということは、これまた不自然というほかはなく、容易に首肯できることではない。

(四)  さらに、記録によると、Bは、七月一六日にAの母Eから本件被害のことを聞いて初めて本件犯行があったことを知ったが、その際、Eに対し、本件犯行のあったときに被告人がAと一緒にいたのを目撃した事実を告げておらず、その後自室を訪れたG巡査に対しても、右の事実を告げていないことが明らかである。原判決は、この点について、七月一六日にBがEやG巡査と話をした際の会話の主題が、本件犯行による被害の有無とか、そのときBが本件犯行の際にAや被告人を見掛けたことの有無などではなく、問題となっている人物が本件マンションの住人であるかどうかであったことなどに徴すると、その際にBがEや同巡査に前記目撃の事実を話さなかったからといって、直ちに、七月一六日の時点においても、Bが右目撃した際の会話の相手が被告人であったことに十分な確信を持っていなかったものと断ずることはできないと判示している。しかしながら、Bは、EやG巡査と話をした際、Aがいつどこでどのような犯人にいたずらされたと言っているのかは聞かされているのであり、犯人を特定することがこの時点での最も重要な課題であったことは明らかである。そうすると、Bが一三日の会話の相手が被告人であったことに十分な確信を持っていたのであれば、犯行の現場に出会わせた当人として、EやG巡査と話をした際前記目撃の事実に言及するのが自然であり、言及しなかったというのは容易に首肯できることではない。

また、記録によると、Bは、七月一六日に本件犯行を警察に通報した直後、被告人方に電話を掛け、電話に出た被告人の祖父に被告人が英語を話すかどうかを確認していることが明らかである。原判決は、この点については、Bの供述によると、七月一三日夕刻の前記会話の相手が英語の教授うんぬんを口にして、その教授を装っていたふしがあったので、既に被告人を犯人として派出所に通報していた手前もあり、念のため、果たして被告人が英語を話すかどうかを確認しておこうとの考えに出たものであることが明らかであるから、この点は、七月一六日の時点でBが、右会話の相手が被告人であることを認識していた証左であるとはいいえても、逆にBがそのことに確信を持っていなかった証左になるものではないと判示している。しかし、Bは、この被告人方への電話をする以前には、EやG巡査に対してはもちろん、誰に対しても自分が七月一三日にAと被告人が一緒にいるのを見掛けたとは告げていないのであるから、わざわざこのような電話をしたという事実は、むしろ、Bが、その時点においても、一三日の会話の相手が被告人であったかどうかについて、必ずしも十分な確信を持っていなかったことを窺わせるものと考える方が自然である。

(五)  このようにみると、Bの供述については、幾多の重大な疑問があり、その信用性はむしろ低いというべきである。その他原判決がBの供述の信用性を裏付ける事情として述べる点を考慮しても、前示のような理由によって、Bの供述はAの供述の信用性を裏付けているとした原判断は、これを是認することができない。

3  被告人の自白について

(一)  捜査段階における被告の自白については、第一審判決が、AやBの供述と矛盾する点が含まれており、いわゆる秘密の暴露もないことなどから、その信用性はそれほど高くないとしているのに対し、原判決は、自白が第一審判決の指摘する欠陥を含み、不完全なものであることを認めつつも、被告人がそれまでの否認から自白に転じた動機に関する部分は、十分に首肯しうるものであるうえに、犯行の経緯及び状況自体に関する部分は、極めて詳細かつ具体的であって、A及びBの供述にも概ね符合していること、一般的に、被疑者が種々の思惑から必ずしも犯行の全容を余さず供述するものとは限らないことを指摘し、被告人の自白の信用性は、原判決の認定に沿う限りにおいて認めることができるとしている。

(二)  しかし、具体的に、被告人の自白とA及びBの供述とを対比してみると、以下のとおり、たやすく看過し難い相違点がある。すなわち、〈1〉犯行時の犯人の服装に関し、Aは、上半身が「ポパイ」というような英語の文字が書かれた暗い色のTシャツ、下半身がグリーンがちょっと灰色っぽくなった色の長ズボンであったと供述しているが、自白調書では、上半身が白色半袖ポロシャツ、下半身が紺色ズボンとなっている(Bは何も覚えていない旨供述している。)。〈2〉犯行時の犯人の所持品に関し、Aは、濡れていない黒の折り畳み傘、東京二三区の地図、英単語とそれに対応する絵が書かれたカード数枚と供述しているが(原審供述では、これらに黒のポーチも加わっている。)、自白調書では、友人のHに届けるために作ったおにぎり二個を入れた西武百貨店の紙袋を持っていたとあるだけで、Aの供述にある物品については何らの記載もない。また、Aは自白にあるような紙袋は見ていないと供述している(Bは右の所持品の点についても何も覚えていない旨供述している。)。〈3〉犯人がAに接近した際の言葉などに関し、Aは、犯人に後ろからまず右肩を、次に右腕を掴まれ、「このマンションで、ヨシカワさんという人はいませんか。ヨシカワさんという人に英語を教えにきたんですけど。」などと言われ、「知りません。」と答えたと供述しているが、自白調書では、僅かに、Aには肩を右手でたたきながら「今日は。」と声を掛けたとなっているのみである。〈4〉階段踊り場での犯人とBとの会話などに関し、A及びBは、BがAに「Aちゃん。」と呼びかけたところ、犯人はBに「ヨシカワさんという人の家を知りませんか。英語を教えに来たんですけど。」などと尋ねたのに対し、Bが「そういう人はいない。ここは英語をやるところじゃない。無断でそのようなことをすると館内放送をする。」などと答えたと供述しているが、自白調書には、僅かに「二階エレベーターの方から来た管理人さんに何か声を掛けられました。私は一瞬ビックリしましたが、『今日は。』と言ってその場をごまかしました。」と記載されているのみである。

(三)  さらに、右の相違点に関し、その余の証拠をみると、〈1〉の服装の点については、被告人の母及び前記Hが本件当日の被告人の服装として右自白に沿うような供述をしている一方、Aの供述にある「ポパイ」のTシャツと被告人の関係については、前記1の(四)で触れたF証言のほかには、被告人が当時このようなシャツを所持していたことを裏付ける証拠はない。また、〈2〉の所持品の点については、自白にある紙袋等は、本件犯行前後の時間帯に付近の病院に入院していた前記Hを見舞いに行ったという自白にも出ている被告人の行動と密接に結び付いており、これに符合するHの供述もあるが、Aの供述にある所持品特に英単語カードのようなものを被告人が所持していたことを裏付ける証拠はない。

以上のとおり、被告人の自白とA及びBの供述とを対比してみると、容易に無視できない食い違いがある。しかも、そのことは、捜査段階でも、捜査官が容易に知ることができ、かつ、捜査を尽くすことができたと思われるのに、本件においては、捜査官が、当時これらの食い違いに気付き、関心を持って被告人やAを取り調べたり、Aの供述にある犯人の着衣や所持品について被告人方を捜索するなどの捜査をしたような形跡もなく、問題点が解明されないまま起訴されるに至っている。

(四)  他方、被告人の自白中犯行状況に関する部分は、極めて詳細かつ具体的であり、特にわいせつ行為については各階段等の場所毎に分けてAの供述とほぼ完全に一致している。しかし、被告人が自白する前に、Aが捜査官に対し被害状況について詳細な供述をしていたことが明らかであるから、これらの供述は、犯人でなければなしえないものということはできない。また、自白調書には、被告人の犯行時の心理描写はあるが、自白調書全体を精査しても、本件の犯人でなければ述べえなかったであろうと思われる事実の記載は見当たらず、もとより、被告人の自白にいわゆる秘密の暴露がないことは、原判決も述べているとおりである。

(五)  このようにみてくると、被告人の自白の信用性については、疑いを容れる余地が多分にあるというべきであるから、原判決の認定に沿う限りにおいて信用できるとした原判断は、これを是認することができない。

四  結論

以上のとおり、A及びBの供述と被告人の捜査段階の自白は、その信用性に疑いを容れる余地があり、被告人を犯人と断定するについてはなお合理的な疑いが残るというべきである。そうすると、被告人を有罪とした原判決は、証拠の評価を誤り、判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認を犯したものといわざるをえず、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。そして、本件については、既に第一、二審において、必要と思われる事実審理は尽くされており、今後、A及びBに対し更にその供述を求めても、事柄の性質上、その各供述に関する前記のような疑問点が解消することは期待できないと考えられるから、本件は、当審において自判するのが相当である。

よって、刑訴法四一一条三号により原判決を破棄し、被告人を無罪とした第一審判決は相当であり、これを維持すべきものであって、検察官の控訴は理由がないから、同法四一三条但書、四一四条、三九六条によりこれを棄却することとし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

検察官松田昇 公判出席

(裁判長裁判官 四ツ谷巖 裁判官 角田禮次郎 裁判官 大内恒夫 裁判官 佐藤哲郎 裁判官 大堀誠一)

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